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ガンダム00について

日本のアニメーションの世界はわりとロングランが多い。ほとんどがシリーズ化して生き残っている。その源はやはり30年くらい前の松本零士や手塚治、石ノ森章太郎といったSFロマン系のものなのではないかと思う。私たちの周りではいつも新しい技術で新しい生活様式が日々あふれていった活気に満ちた時代だったのも、追い風となったのではないだろうか。
21世紀になった今、鉄腕アトムとまではいかなくても、アシモのような人間くさいロボットが登場したり、サイボーグ009で使われていたよりはるかに高性能な時計だってあるし、お金の代わりをしてくれる携帯電話だって、ある。あのとき「夢」と思っていたことはすでに沢山現実のものとなっている。

一方で、現実のものになっていないことも沢山ある。人は無機物あるいは有機物からなにかを作り出すことはできても、自分たちの生きる方向性は少しも変えられていないばかりか、人としての理想を追うことからどんどんはるかに遠ざかっている気がする。
どうして人は自分を変えることをこんなにも苦手としているんだろう。

そう思わせるのが「ガンダム00」だ。ガンダムシリーズも安彦良和が第1作を投じてから、途切れることなく形を変えて、人を変えて、時間を変えて長く作られ続けている。時代設定は今から200年後くらい。宇宙にのびる長い発電用タワーを建設して、人々は今の世界で抱えているエネルギー問題を解決してさえも、まだ、争うことを止めない。人の欲望には限りがない。いつかそれが終えたとき、もしかして人としての進化(あるいはただの変質?)を終えてしまうかも知れないのだけれど。

ストーリーには200年後としてもかなりリアリティがある。宇宙開発の技術などは、実際日本の宇宙開発に携わるメンバーが加わっているらしいし、政治問題などにもたぶんスペシャリストが絡んでいると思う。今回のキーとなる「ヴェーダ」というまさに「神」とも言うべき演算機につけられた名前はインド哲学の「神への賛歌」から引用された名前だろう。そして、また、他方で「ヴェーダ」のコピーともいうべき演算システムにつけられた名前は「ラグナ」。これはきっと北欧神話の「ラグナレク」からつけられたと考えられる。「ヴェーダ」が「神への賛歌」であるとしたなら、「ラグナレク」は「神々の滅亡」を意味する。この相反する2つの人工頭脳が設計していく世界に人々はどう動かされていくか?あるいはどのように人として干渉していくか。これにもきっとどこかその道に詳しい人がかんでいるに違いない。そうして、作り手たちは「ガンダム00」の中で何を伝えようとしているのか?なぜ「アニメーション」でないといけなかったのか?そのあたりに日本のアニメーションの世界の特異さがあると思う。

日本のアニメーションの根底にある世界は「浮世絵」に代表される工房にあると言われている。そこでは徹底した分業があり、職人があり、独特の世界観がある。また創造していく楽しさと苦しさ、それは好きでなければできない世界だ。今でこそ地位が上がっているのかもしれないが、イラストレータたちやアシスタントという仕事は食うに食われぬ世界だと聞いたことがある。その情熱を支えているのはその「実像の世界」にはない「空想の世界」の魅力だろうと思う。

リアルでないものの持つ、表現性。たとえばテロリズムの台頭で人々は次々と殺されていく。それはリアル映像であれば余りにも眼につらい。子供たちに伝えるには刺激が多すぎる。でも、アニメーションが残酷でないかといえばそうではない。ただ、「伝えたいことを強調して伝える」ことができる一つの方法だと思う。

日本のアニメーションは世代を超えて伝える一つのメディアだと考える。そして、今ある現実を純粋に考えさせる。人はいつまで欲望に目を向けて、目の前に迫る現実から目をそらしているのかと。すなわち「人としての変革(自己変革)」をして、より尊厳ある生命体を目指せないのかと。

って、言いすぎ!?(笑)どうよ?
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【蝕受】オリオン座からの招待状

先ほど日本アカデミー賞の主演女優賞が発表された。ノミネートされた中に宮沢りえちゃんがいた。残念ながら受賞には至らなかったけれども、私の中では映画「オリオン座からの招待状」の中で映画館の若くてきれいな奥さん役を演じていた彼女が印象的で、受賞してくれないかしら、と思っていた。残念だったけれども、映画を観たときの感動を思い出して、書き記してみた。概要のような客観的なストーリーは敢えて書かなかった。ただ、自分の感じたことだけを記してみた。大人向けの映画で、同時期に興行されていた「続・Always・・」に劣っていたとは思えないけれど、残念ながら観客は少なかった。閉館前のオリオン座のように。

*************

宮沢りえちゃんが綺麗だった。なーんだ、そんなことか、と思うかもしれない。でも彼女の所作、表情、あぁ、女優さんだと思うに価値ある美しさ!
懐かしい長屋の路地、土間のある台所、前掛けのエプロン。ランニングシャツに汚れた靴を素足で履く男の子。呉服のハギレを集めて「きれいでしょ?」と訊く女の子。

「おやっさん」の葬儀を終えて、かつおぶしを削るりえちゃん。今までおやっさんがしてくれていたその仕事を、傍で見ていた自分が今度はしている。その喪失感。感情があふれてくるのに、静かに、恥とばかりに流した涙を拭うりえちゃん。その様子に近づきがたい加瀬くん。そのときまで、りえちゃんは、確かに「おやっさん」を心から愛していて、そしてただ失ってしまっただけだった。りえちゃんは夫婦の毎日の名残を演じていたのだ。

そんな自分に「どこかに行こうか?」と気分転換をしようとするりえちゃん。自転車を押して行くなんて、現代の「どこかに行こうか?」ではなくて、近所の、日常の、そんな二人の「どこか」。

自転車にのって、立ちこぎなんてしちゃうりえちゃんの黒い服に、公園の緑と、邪気のない笑顔が映えて一枚の絵のようだった。そして加瀬くんの中ではりえちゃんのことが「あねさん」でなくて、女性になった瞬間だったんだろうと思う。そして、りえちゃんも、加瀬くんにかぶせた「おやっさん」のハンチング帽は、似合ってしまうと、彼を男性としてみてしまいそうで怖くて、「新しいのをこうてやる。」と言ってしまうのだ。

りえちゃんが映画館の正面高いところに看板をかけようとして、誤って怪我をしてしまった病院の帰り道、りえちゃんを背負う加瀬くん。恥ずかしいから降ろしてというりえちゃんに、病人だからと降りることを許さない加瀬くん。怪我を理由にずっと背負っていたかった。
言い訳をたてに愛している後ろめたさ。結局彼はりえちゃんが大切だから、最後まで言い訳のたつようなあるいは「義」のうしろでこっそり彼女を愛してきたのだ。オリオン座を最後までつぶさなかったのはただ、りえちゃんとずっと一緒にいたかったから。無くなれば一緒にいる理由さえなくなってしまうから。

一度だけ、りえちゃんから差し伸べてつないだ手。世間がなんといおうと、二人にできるせいいっぱいで愛しあってきたのだった。最後のさいご、命が果てるまで。もっと早く気持ちを確かめ合ったとしても、それを「おやっさん」がうらんだりするはずもなく、「不義」と思うはずもないのに、ただただ、お互いが、そうすることをがまんしてきた純情さが痛かった。

こんな愛も、あっていい。

「大人っち、なん?」

大人っち、なん?どんなんなったら、大人なん?
大人はずるいっち、言うけん、ずるい人は大人なん?
そんなんやったら、私、大人になりたくないんやけど。
(in 北九州弁)

最近、民法改正で18歳を成人にするかどうかを法務省が法制審議会に諮問しているようだ。

このことに関して口々に洩れるのは「18歳っていったら、まだ子供でしょ。精神的に今幼いのに、お酒飲んだり、政治に参加したり。ムリじゃない。」そんな言葉が多い気がする。

では、そもそも「大人」とは?

辞書「大辞林」には

1:十分に成長して、一人前になった人。成人。こどもの反対
2:考え方や態度が一人前であること。青少年が老成していること。
3:元服をすませた人。成人。

などと掲載されているが、なんだかあまりにも抽象的だ。どういうふうに成長すれば、十分なのか?どういう考え方だったら一人前なのか?具体的な指針になるようなことは書かれていない。だいたい、今の「大人」だって、一体どれくらいの人が十分に成長して、成熟しているのだろうか?考え方がや態度が一人前と客観的にみて思える大人が一体どのくらいいるだろうか?自分でも胸を張って「大人」だと「こども」にいえるだろうか?あまりにも幼い自分勝手で権利ばかりを主張して、権利の裏には義務が発生することを自覚していない大人ばかりではないだろうか?


そもそも今回、民法が改正されて18歳が成人と認められればどんなことが変わるのだろうか。まず、未成年として保護されていたことを剥奪される代わりに自分自身で権利を持つことになる。成人としての権利もくれる代わりに義務も責任もいっしょくたになってやってくる。選挙権だって発生する。裁判だって起こせる。飲酒喫煙ができるようになる。しかし、少年法の適用がなくなるので、大人と同じように裁かれる。18歳になったら、年金なども収めないといけなくなる。む、まてよ。年金を払わなければいけない?なんだか雲行きが怪しくなってきた気がする。

よくよく考えると、成人して、「裁判起こしたい」「商取引したい」「選挙に行って政治に参加したい」などという18歳がどれだけいるだろうか?ましてや「もう大人なんだから、悪いことして大目に見てもらおうなんて思わないで、ちゃんと罪はつぐないたい。」などと思うわけないだろうし、飲酒や喫煙は身体によくないのだから、そんなこと今の大人だって「早く飲酒させてやりたい。」などと言い出すわけもない。残ったのは「年金払いたい」人だが、もちろんそんな18歳も、保護者もいる気がしない。だとすると、年金を払ってほしい大人がいて、「大人になったら、権利が増えますよ。」ということにしておいて、議論が年金に向かないうちに法律を制定して、年金を払う期間を増やしてしまおうと考えている人がいるのではないだろうか。或いは専門家はわかっていて、「でもこのままでは年金の財源が足りなくなるのでだまっておこう。」などと思っているのではないだろうか。

何しろ、「介護保険法」などという法律も「年をとったら介護の費用を出してあげますよ。」とか言いながら、実は40歳以上になると、健康保険に上乗せ、65歳を超えると、年金から天引きなどをして、死ぬまで払うことになっているのだった。さらに、今年の4月から老人医療制度が変更となり、詳しくはまだチェックしていないが、医療負担が今以上に増えることになりそうである。こんな大事なことのほとんどは、「みなさんのためになりますよ。」という顔をして、負の部分は隠しておく。そして法にされてしまえば、それが民意を汲んで改変されるという望みは薄い。だとしたら、年金だって、人口が減るから今のうちに財源を少しでも確保しておこうと思っている可能性は大いにあるのではないだろうか。

「やっぱ、大人っちゃ、ずるーーい。大人とかなりたくなーーい。」

【触受】「生物と無生物のあいだ」

親愛なる福岡伸一様。

出会いにはタイミングがあり、どんなによいと思われるものも、あるいはどんなに最悪なものも、その対象が受け入れられる状態ならそのように物事は動いていくものですね。

実を言うと、あなたの本は私の枕元にもう数週間もそのままに置かれていました。そして就寝のつかの間、私はそれを手にとっては読み進まずにまた閉じてしまい、眠りにつく日々でした。
通常、そのような本は私を素通りして、行ってしまうものなのですが、今日、それを私が一気に完読してしまったのは、私にあなたの本を受け入れる心が準備されていたからなのでしょう。

「生物とは?」
この大きな問いに挑んでいった多くの科学者たちの足跡を、あなたの眼を透してみると、私たちはまるで自分が探検者になったように科学の世界へ入ることができます。人が生命の謎を解くために一生をささげ、そしてその鍵をまた誰かが受け取って、次の扉を開いていく、それは生命とともに「自分が何者であるのか」を探す旅でもあるようです。

生物の進化は大きな時間でしか見ることはできないけれど、日々の生命が生きている様子は進化というものが留まることなくなく、刻一刻と私たちの体内でも起こっているのをあなたの言葉で感じることができます。
私たちが生きているということは、私たちは変わり続けているという証なのですね。それこそが命の意味であるというのは納得できる気がします。
私も「生きるということはどういうことだろうか。」とずっと考えていた時期があったのです。
数理系の学力のない私が自分の経験から考えた答えは
「生きるということは、命をつないでいくこと。」
ということでした。究極、そのように思ったのです。ゾウリムシだって、分かれて増やしたり、増えすぎると減らしたり。でも、次の世代にベストな状態で命をつないでいくという答えは案外悪くないのでは、と思いました。

数理を勉強しなかったことをとても惜しいと思ったのは、あなたの本を読んで初めてでした。それはもっと私に知識があれば、さらに「命をつないでいく源」を探るたびをあなたと同じようにもっとリアリティを持って感じることができたのではないかと残念に思うからです。

あなたの言葉は、生命の不思議を科学の眼で私たちに語りかけながら複線を並列して走る列車のようにまたあなたのバイオグラフィを見せてくれます。あなたがポスドクとして過ごしたNYの日々、ボストンの日々、そして出会い。それは人との出会いだけでなく、あなたの過ごした日々を包括するすべてのものとの出会い。何より大切なのは今のあなたを支えて、あなたを進ませてきたものは変わらないあなたの「生物への愛情」だということがよくわかります。
その感覚は、生き物に実際に触れて、過ごした少年の日々の体現であるのでしょう。
章の中で、あなたと時間を過ごしながら、私もまた自分の経験を重ね合わせて深く思い入れていきました。ミルクのように深い白で美しい羽化したばかりのセミの羽の色、川の中でまだ幼虫であるのに全体が緑がかって光る幻想的な蛍。触れたものしかわからない、あの命との出会い。
この本はきっとあなたがもっとも書きたかった一冊であるに違いありません。
私にとってあなたの著書との初めての出会いでしたが、あなたを知るに十分な一冊でした。

そして私はまだこの本をとおしてあなたの感覚をもっと感じていたい。

恋に近いこの告白は、私のあなたに対する最大の賛辞です。

父のこと。

父は団塊の世代の人です。
一昨年、30年近く続けていた商売をやめてからも
まだ毎日仕事に出かけていきます。
父は働き者なので、商売を続けながらも
他に仕事を掛け持ちしていたのです。

小さいころの父はとにかく行儀に厳しい人でした。
よくゲンコツをもらったことと、特に食事時の無作法には
裏箸でバシッっとたたかれました。
「たまに学校に授業参観に行ったときなども、授業中もかまわずに
ゲンコツをしたものだ。」と懐かしそうに本人も言います。
しょっちゅう怒られていたので、もうそんな一つ一つのエピソードは
私は覚えていないのだけれど、そんな風に育ててしまったので
私が今、こんな風になったのだと、酒を飲みながらの時は
ちょっと後悔しているように話したりします。
(しかし、生来の性格なので違うよ、と言ってあげたい)

6年ほど前、家族で始めて海外旅行に行きました。
父はそれまで海外に行きたいと強く思っていたようで
パスポートまで取得していたのに、母の反対で行けなくて
とうとうどこへも出かけずに期限切れとなってしまったようでした。
さすがに家族全員での家族旅行に母も「それじゃ行ってみようかね。」
と賛成し、4日間のシンガポールへの旅に出かけました。

それからです。父は「海外はこんなものか。」と思ったのか、ツアーなら
安心と思ったらしく、毎年毎年一人で海外に出かけていくようになりました。
観てみたかったという「オーロラを観る」旅。「グレートウォールを歩く」旅、
「ナイアガラフォールを体験する」旅。はたまた最近はアフリカまで
出て行くようになりました。今では父の部屋は勲章のように各地で撮った
写真入の額がところ狭しと飾られています。
そんな父は海外旅行の日程を直前までひた隠しにし、旅行前一週間
(今回の年末は数日前だった)くらいにようやく「●●にちょっと行ってくる。」
などとうれしそうに言います。
たぶん今が父にとって絶頂の「青春時代」だと思います。

「年をとったら、おまえ(母)と、今度は国内旅行しまくるけんのぉ。」
という父。いったいいくつを「年」だと思っているのでしょうか。

父はありがたいことに今日もとっても元気です。

SNSでなく、オープンに。

今日から本格的に自分整理を始めます。
いつも考えていたことや、書きためていたことを
素直に出せたらいいなぁと思います。
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