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テサギ

今私は「太王四神記」という韓国のドラマにはまっている。「ペ・ヨンジュンが出ているから?」いえいえ、そんなミーハー(古い?)ではありません。ストーリーもいいし、なにより登場人物のひとりひとりが個性的で、イイ!どうやって観ているかというとYouTubeで何度も観ている。しかも何度も何度も。なぜかというと韓国語のみで、日本語字幕などないので、「これはどうやらこんな話をしているようだ」とか、「今、日本語の発音に似たことばが出てきたのできっとこの話をしているに違いない。」などと、想像しながら観ているのである。(笑)

なぜこんなにはまったのか、いろいろ考えてみたが、どうやら日本の時代劇に似ているからのようだ。しかも「水戸黄門」。ペ・ヨンジュン演じる広開土王は小さいときから身分を隠して市井にこっそり遊びに出て、いや大きくなっても市井の人々と同じ目線で対等に話をしようとする。黄門様が「越後のちりめん問屋」なら、陛下(韓国語でペア)は「どこか目利きする貿易商」なのだ。「1ヶ月塩を売るのを待ったら、値上がりするよ。」というと、本当に値上がりする。政治の情勢をみながら、アドバイスするのだ。(今でいうとインサイダー取引??まぁ、ドラマなんだから硬いことを言わないで・・・。)そして人々が「王様」ということを知った後でも、対等に人として話をしたり、お願いをしたりするところにどこか水戸黄門さまの気安さのような、爽快さが残る。そして、「格さん資さん」のような力強い用心棒や、「うっかりはちべえ」のようなひょうきんなキャラクターも出てきたり、本当に楽しい話に仕上がっている。シリアスあり、ロマンスあり、コメディあり。しばらくは現実を忘れて楽しいドラマで息抜きができそうである。テサギばんざい!!

ちなみにテサギとは太王四神記をTae Wang Sa Shin Giと表記するが、略してTae Sa Giと韓国では呼ばれているらしい。。
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中国の行方

もう、数年前から「中国はオリンピックまで持つか?」と聞かされてきた。

・食や製品(食べ物以外でも)の安全性
・自然破壊による土壌汚染、飲料水汚染、大気汚染
・人民の国への求心の低下
・富裕層と貧困層の格差増大
・資源の枯渇

それでも、中国経済は成長を続けている。
中国の物価上昇は半端でない。日進で価格がつりあがっていく特に都市部の中国人の毎日の関心は「何の値段が上がっているか?」ということらしい。 そうして今、日本あるいは世界に輸出される中国からの製品の安全性が今までになく激しく指摘されている。ちなみに、中国では富裕層は中国の野菜は食べない。安全でないことを十分知っているからだ。彼らが求めるのは日本の無農薬有機栽培の野菜や米や、あるいは果物だ。日本のイチゴなどは輸入コストを入れてもなお利が取れるほど高値で取引されている。
また、日本の牛肉はもともと世界では「WAGYU」という名で有名であるが、BSEの安全性確認により輸出許可が下りたら、たとえばオーストラリアなどが和牛の遺伝子を輸入して作った「外国産和牛」よりももっと高値で取引されるのだ。
とはいえ、一部の富裕層の相対数などは人口が多いから成り立つわけであって特に全体的に中国が豊かになったかといえば、それは疑問である。中国製品は過渡期を迎えていると思う。もう「安さ」で勝負できるほど都市部の人件費は安くない。不動産や物価の値上がりで、人件費は高くなければ人々が暮らしていけないからだ。そうして都市部と地方の格差は広がっていく。文化の質も変わっていく。

インターネットを初めとする世界とのタイムレスの情報共有で、都市部の人々は世界の現状を知り、刺激を受け、文化的なスタイルもトレンドもどんどん進化していくのだ。中国ではいまロックがはやっているらしい。ときおり聴く中国情報を伝えるラジオからはちょっとスローな、一昔前の日本的な優しいロックが流れてくる。ヘビメタなどはきこえてこないところをみると、いくらリアルタイムの情報を入れても受け入れる人間側の進化には時間がかかるのだろうかなどと思ったりする。

中国の行方。日本人が心配するほど、すぐに中国が倒れるようには見えない。
たとえば、宇宙開発なども中国やインドは日本のようでなく、もっと遠くの未来をみすえて計画を着々と進めている。日本ではどうしてもコストに見合うだけの即効性の成果が求められるのだが中国やインドは軍事とビジネスを同時進行で進めているようだ。そこになんの境界線も見当たらない。これは「華僑」や「印僑」といわれるような民族に流れる血が現実をうまく捕らえて時代にのせているということなのだろうか。

いずれにせよ、中国の心配をせずに、日本の心配をしたほうがいい。中国などのやり手の国に比べれば、日本はいつまでも国の運営がへたくそだ。1億くらいの2,3の民族さえまとめられずに政治が停滞して、自治体が崩壊しようとしている国は、とりあえず自分たちで食べていくだけのものに対する中国への依存度を減らして、もし中国が倒れても、あっけなく一緒に共倒れしないように国策をたてたほうがいい。
「なにもない」ということにかけては、日本は中国と比べられないほどなにもない国なのだから。



ワードを扱うということ

小川の流れはフクザツだ。枯葉を流せばあっちにいったりこっちに来たり。急に早く流れたかと思うと、よどんだ流れで留まったり。離れ小石に引っ掛かってしまったかと思うと、急に予想もつかない方向に流されたり。
論文のフォーマットをしていて「ワードは小川の流れに似ている」そんなことを思った。

ワードに図やテキストをはめ込む作業は難しい。なぜなら不完全なレイヤーがところどころに存在しているからだ。これをどのように理解するかというと、例えていうなら私は上記のような川の流れる表層に漂う木の葉のようなもの、あるいは川の中にところどころ顔を出している飛び石のようなものと想像する。

図をはめ込むとき、まず「図」だけをはめ込む場合に限って言えば、レイアウトを見ると図本来の枠が行内に収まっていて、四角形をしていることがある。図単独の場合、図の周辺に余白の設定をするなどの細かい作業をしなければ、「枠が四角の状態であること」が一番楽だ。ただし、その図の上下に他の図やテキストボックスなどがあった場合には図とそれらが重なることとなり配置が難しい。この場合図や表に対するキャプションなどはテキストボックスに配置するのでなくプレーンテキストで挿入することが望ましい。

レイアウトを「行内」やそのほかに設定すると、図のハンドルが変わって、角が丸い表示になる。これが本来のワードの「図」としての基本設定だ。
この「ハンドル」はいわば図の設定に多様さを与える。たとえば、その図をどのように配置するか、枠外にどのくらいの余白をもたせるか、図は中央揃えなのか、左揃えなのか、右揃えなのか。あるいはテキストと一緒に移動するのか、またはテキストを回り込ませて図を設定するのか。図のサイズも変更できる。図の重なりがある場合にはどの図を前面に持ってくるか、あるいは背面にもってくるか、図の背景を塗りつぶすか、そうでないか、線は表示するか、などの書式も設定できる。

「便利な機能だ!」と思うけれど、実はこれが危ない。テキストと同時に移動するものは、川の流れにのった葉っぱのようなもので、前ページに図のスペースが無くなると、次ページに移動するとその大きさ分くらい前ページにブランクが空いてしまって、みっともない。固定をして、テキストの回りこみをかけると大丈夫のような気がするが、これはまた不安定。なぜかというと表面張力が崩れたときに急に滑り出すプラスティックのプレートみたいなものだからだ。
描画オブジェクトというスペースがある。これはまさにそのプラスティックのプレートのようなもの。この中に入れている図やテキストボックスは、プレートの上に葉っぱやぼうきれを置いているようなものだから、移動はしない。でも、このプレートのアンカーが不完全なので、プレート毎移動してしまう。しかもこのプレート、角が尖がっているためにあらゆる障害をゆるーく滑りぬけるのでなく、スケボーのように予測不可能な場所にびよーんと飛んでいってしまうのである。

かくして超自然現象が起き、せっかくフォーマットに合わせようとしてもいつまでもワードとの格闘は終わらないのであった。

ワードにはたくさんの機能がある。使いこなせないのでなくて、わざと使いこなせないような(言い換えればとても使わない)項目が沢山あるし、思慮なく勝手にやってくれる「オートコンプリート」なるものが、文書のフォームをどんどん崩していってくれるのだ。一体こんなに不完全なアプリをダレがよいと思って作ったのだろうか。。
たぶん、「汎用性」という意味で、ワードはマジョリティだ。このマジョリティを維持するために、さまざまな機能が必要で、それがお互いの特性と不調和を起こして(いわゆる相性が悪い機能同士)障害を起こしているのだと思う。

汎用性と多機能と専門性。

相反する要求を本当にすべて網羅できれば素晴らしいが、まだまだワードというアプリは発展途上でメジャーデビュしたスポーツ選手みたいなもので、よく期待を裏切るのだろう。今後に期待するしかないかな・・・。はて。

オネスティ

ビリージョエルのこの曲は歌詞の意味を知らなかったころからいつも私を慰めてきた。原詩を読んでも、なかなか難しい。いろんな人がいろんな訳をしている。それだけみんなこの曲に心癒されてきたんだと思う。
ここにきて、自分でも訳をつけてみようと思ったのはきっと自分のなかのオネスティが出たがっていたのだと思う。ほとんど自己解釈なので、元の詩の中にある言葉はあんまり出てきていない。むしろ自分で作ったようなものだ。たぶんもっと違った心の変化でもっと訳を変えてみたくなると思う。そうしたら私の中にオネスティの長編ができてしまうかもしれない。

日本語で「誠実」というのは「真面目で真心がこもっている」こと。今となっては「真面目」なんていうのは生きる上での障害になるだけなのかも知れないね。

***************
Honesty
by Billy Joel

If you search for tenderness
It isn't hard to find
You can have the love you need to live

But if you look for truthfulness
You might just as well be blind
It always seems to be so hard to give

Honesty is such a lonely word
Everyone is so untrue
Honesty is hardly ever heard
And mostly what I need from you

I can always find someone
To say they sympathize
If I wear my heart out on my sleeve

But I don't want some pretty face
To tell me pretty lies
All I want is someone to believe

Honesty is such a lonely word
Everyone is so untrue
Honesty is hardly ever heard
And mostly what I need from you

I can find a lover
I can find a friend
I can have security
Until the bitter end

Anyone can comfort me
With promises again
I know, I know

When I'm deep inside of me
Don't be too concerned
I won't ask for nothin' while I'm gone

But when I want sincerity
Tell me where else can I turn
Because you're the one that I depend upon

Honesty is such a lonely word
Everyone is so untrue
Honesty is hardly ever heard
And mostly what I need from you


なぐさめてほしいと願えば そんなのいつだって叶う
寂しいから探す愛情だって 手に入るでしょ
生真面目に 人に向かえる人を探そうと思ったら
そんな時代遅れなこと ダレも振り向きもしないね

オネスティってそんなことばだよね
どこにも無いものをさがす空しさは 知っているでしょ?
オネスティってそんな寂しいことばなんだ
たとえ世界中から消え去ってしまっても
あなたにだけは そうあって欲しかったのに

同情なんていうのは 所詮他人事で
自分を高みにおいているだけだよね

調子のいい人なんていうのは信じるに足りない
付き合うだけ ただ虚しさが凍みるだけ

かけひきなく信じてもいい人なんて 
この世界のどこにいるの?
そんな昔話なんて 聞きたくもないだろうけど
あなたにだけは 覚えていて欲しかった

恋人だとか 友達だとか 心の安らぎだとか
地上にあるうすっぺらいものは 手に入るでしょ
たぶんね きっと

独り 抜けられない夢を彷徨うとき
ただ 誰にも邪魔されずに居たいと思う

もし 夢のその先にある真実を見ようとしたら
ねぇ いったいどこまで行けばいいのかな
 
でも そのときが来たら 教えてくれるよね?
「その先にはなにもないんだよ」って

誰かを信じ続けるって 孤独なことだね
信じていいかって いつも問い続ける
オネスティって そんなことばだよね
ほんとうは あなただけは信じていたかったのに

夢のつづき

深い乳白色の中を歩いている
歩いているのか あるいは

そこらじゅうが無声の世界
濃いミルク色の空気だけが震えるように応える
肌につきささる水を含んだ気体

遠くに車のハザード
ようやく気づく 朝の気配

たぐるように空気を拓く
波打つ先に漆黒の幹 抱えきれないくらいの
薄い白のシェードがはらはらと散る

仰ぎみる先 たましいの叫び
老いて咲き 老いて咲き みだれ咲き
天にいちばん近い 命の舞い

霧は振り落ちた
さくら さくら 夢をみせてよ

「夢のつづきは 終(つい)のせかいで」

インフォメーション・コントロール

私は田原総一郎氏のブログをよくチェックしている。彼によると、マスコミが黙っているときは何かが動いているときで、その情報源は官僚なので、「黙っていてくれ」といわれたら黙っているそうだ、たとえそれが公に出ることが正しいとしても。

先日、村上龍氏のインタビューのネットビデオを見た。イージス艦あたごの衝突事故の件で、「マスコミは事実だけを伝えればいいのに、すべて「推測」の部分ばかりを報道しているよね。」と話していた。

先週の日曜日。成人年齢引き下げの件で、読売新聞に特集記事が載っていた。紙面を割いてやっているにもかかわらず「成人になったら年金を払う」ということは一行も書かれていなかった。田原さんと村上さんの名前に並列して言うのもおこがましいが、私も思う。「マスコミは都合の悪そうなことは隠してるよね。」

ちなみに言うと、沖縄の女子暴行事件についても、インフォメーション・コントロールされていると思う。確かに米兵は女子生徒に声をかけたが、無理やり連れて行っているわけでない。誘われて乗っていった。家に連れて行かれた後も、「送ってやる」といわれて、外出している。普通、「婦女暴行」なら無理やり連れ去って、どこかに連れて行かれて、ほっぽりだされて「ハイ・サヨウナラ」だ。
今回のようなことはいわゆる「本土」で、日本人が日本人女子に行った場合せいぜい「強制わいせつ」だろう。酷いときには相手が「先生」などなら「いたずら行為」などという生易しい表現でおしまいのことだって、よくある。私は今回のことはそれ自体は許せない行為だと思う。自分の子供だったら、本当に許せない。言いたいのは、同じくらい許せない行為をしているにもかかわらず、そのとき、そのときで裁量を加えているように見えるマスコミの態度だ。
今回は事件が政治的に使われた。米兵は証拠不十分で不起訴になった。女子学生が捜査に非協力的だったからと書かれていた。当たり前だ。この事件の中身がどんなことであろうと、沖縄県内だけでなく、日本国中、しかも米国まで巻き込んで話題になってしまった。まだ十代の女子学生にとって、起こったことだけでも辛いのに、このように騒ぎ立てられては傷が深まるばかりだ。事件より報道のありようのほうが心に残ってしまうに違いない。「そっとしておいてほしい。」というこの子のことを考えると、都合の悪いときに黙っているのだから、今回もだまってそっとしておく優しさが報道にないのかとその倫理観を激しく疑ってしまう。

みなさん、紙面に書いていない行間に注目して、情報をうのみにしないようにしましょうね。知らないことは弱みを見せることです、「大人っちゃ、ずるい。(in北九州弁)」んですから、油断禁物です。

めぐる・オルゴールのものがたり。

今日、地元の百貨店にお茶の道具を買いに行ったら、隣でオルゴール展をやっていたのでふと気になって入ってみた。装飾のほどこされた木箱のようなものから、色付けされた陶器製のもの、まるで蓄音機のような大きなオルゴール。私が訪れたときには、ちょうどその大きなオルゴールが動いていた。一人の年配のご婦人が係りの人から説明を受けながら聴いていたので、私もちょっと傍に寄ってみた。
その大きなオルゴールには、湾曲していて沢山の小さな軌跡のような縦長の穴が開いているディスクがのっていて、回転しながら音を奏でている。私をみて、係りの男性が「換えることができるんですよ、50枚くらいはあります。」といいながら、"In the mood"をかけてくれた。
その後、「外観もすばらしいけれど、これはすばらしい音がするんですよ。」と、別のターコイズブルーのオルゴールをかけてくれた。パッヘルベルのカノンだった。軸が回転しながら澄んだ音色を奏でる。曲が長いわりには回転するドラムは小さい気がした。よく見ると、123と書かれた板に時計のような針がついている。「はは~、これは、ドラムの軸を少しずつずらして譜面を変えているんですね。」というと、店員の人は嬉しそうに「よくわかりましたね、仕組みがわかっている人でないと、気がつかないものなんですが。」と言った。「そうなんですよ、それで、3まで行くと、また1に戻るんですよ。でも、それにしてもいい音色でしょ?癒されたいと思ったら戻ってきて買ってくださいね。」
あったらすばらしく癒されるだろうとは思ったが、とても私の手に入るような価格ではなかった。

でも、あったとして・・・あったとして・・・機械に命を取られないだろうか?

なぜそう思うかというと、最近マイケル・カニンガムというアメリカの作家の「星々の生まれるところ」という本を読んだからなのだ。3部作からなるこの本は、時代を違えて同じ語源の名前をもつ、同じ年代の人物が登場する。その第1部の中で「ルーク」という男の子は「機械に命があって人間を捉えようとするチャンスをうかがっているんだ。」と知るのだ。ロボットのような人間に近い形のものでなくて、工場にあるプレス機やミシンや、そんなものさえ人間を捕まえて命を吸い取ろうとしている。みんな命を失っていく。そんなルークの家にあるのは、代々命を吸い取ると言われてきたオルゴールだったのだ。

そして、この星々の生まれるところにちりばめられているホイットマンの詩が知りたくて、今度はホイットマンの「草の葉」を読んでいるところだ。ホイットマンは自身が書いた詩はすべて版を重ねるたびに「草の葉」一冊に収めていった。"Leaves of Grass"の訳で「草の葉」なんだろうけど、英語のニュアンスは少し違う気がする。日本語で「草の葉」というとその辺りの幅広の雑草の一枚を想像しそうだが、どうも"Grass"は、イネや芝生などの細長い植物を指すようだし、"Leaves"と複数形にしているところは、日本語のようにその一枚をクローズアップしたのでなく、多数の植物を連想させる。ホイットマンは1855年から92年までの37年間の細かな詩たちを1冊にした。それはまさしく一つずつは雑草のような小さなものかも知れないが、まとまって見渡すと、そこに草原が現われ、全体は調和して大きな意味をなす。そう、ホイットマンは伝えたかったのかな。

それにしても本でつながって、日常がつながって、そしてまた本に還っていく。まるでこれこそオルゴールのようだ。いつか私もオルゴールから出られなくなってしまうかも・・。
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