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【触受】イマジン/ジョンレノン

真夜中にwebでアニメを見ようとGyaoを開いた。そうしたらお目当てのプログラムが見つからず、ふと目に付いた「イマジン」の文字に「あぁ、ミュージック番組もあるんだ」と安易にクリックすると、それは曲ではなく、1本のジョンレノンのムービーであった。

例えば一つの絵画をみて、それから感銘を受ければ、その人の他の作品も見てみたいと思うと同時に、その画家のことを知りたいと思う。画家のプロフィールを見て、ファーストインプレッションと共にバックグラウンドで絵の理解をすすめようとする。しかしながら、音楽に関して(クラシックなどを除いて)ポップミュージックなどに背景を求めて来なかったなと気づいた。

そういえば私はビートルズを知らない。ジョンレノンを知らない。そしてオノヨーコを知らない。ただ、ビートルズ、ジョンレノンの曲しか聴いてこなかった。
リバプールで生まれたバンドが世界的に有名になり、一世風靡して音楽の世界に大きな影響を与えた。そしてなぜかジョンレノンの横にはオノヨーコという日本人。それくらいしか知らなかった。覚えのある映像としては、日本公演に訪れたビートルズのメンバーがJALの法被を着てタラップから降りてくる姿だ。マッシュルームカットの彼らがどのようにして嵐のように世界中を熱狂させたのか、CDで聴く曲からは想像できない。きっとこれが世代なんだと思う。

イマジンはジョンレノンという人の伝記だった。そう言ってしまえばそれで終わりだけれど、漠然と持っていたイメージも変わったし、本当に彼は早く生まれすぎたのかも知れないとも思った。人は自分の純度を上げようとすればするほど、多くの人と関わって影響し合っていくものだなと思う。自分を計るときにはどこか相対的でないと感じ取れない部分があるものだ。
でも影響の渦が大きすぎたのは、それはやはりジョンレノンという人が特別な人だったからに違いない。声が?曲が?思想が?精神が?・・・魂が?それは一概にどれとは言えない気がするけれど。

ジョンレノンの一生をわけるとすれば、ビートルズ以前、ビートルズ時代、そしてオノヨーコ時代に分かれるのかなと思う。ビートルズ以前の彼は自分を表現する術を知らない、ビートルズ時代の彼は表現することによって他人に与える影響を知らない、そしてオノヨーコ時代の彼は人に与える影響を知っているが、それをコントロールする術を知らなかった。
彼の根底にあるのは、自分を表現することを知らなかった少年時代にあるように思う。結局その後の人生で自分が受けた生に対する答えを探し続けていたんだろうか、と。
ビートルズ時代の彼はただ感情に任せて自分のために曲を作って、歌って表現していたように感じる。
オノヨーコと一緒になってからは、どちらかというと彼女のために歌っていたんだろうなと思う。平和について?そう、オノヨーコはジョンレノンという楽器を使って自分を表現していたのかな、とも思う。平和という活動をしたいと先導的に思っていたのはオノヨーコだったようだ。でも、それがジョンのような純粋な思いだったかというと私には疑問が残るけれど。ジョンは想いを形にしていった。そう「イマジン」。彼は表現し続けた。それはオノヨーコという一人の人の中に自分の居場所を見つけたから、そんな気がする。

Imagine there's no heaven,
Imagine there's no countries,
Imagine no possessions,

Imagine all the people
sharing all the world !

ビートルズの発言や曲はその言葉表面どおりに受け取られて、彼ら独特のユーモアやウイットに人々は時として良くも悪くも過剰に反応した。
イマジンの歌詞にある「想像してみてごらん、神が居ないということを」というのは、別に神を否定することではないと思う。「国がなくなればいい、たくわえを持つということが無くなればいい」、これだって別にそれらを否定しているわけではない。
宗教や国籍や人種や、そして財産というものはいつだって争いの火種になってきた。しかし、それらを否定することは自己表現を否定することだし、個性や人の存在意義といったものまで否定することだと思う。ジョンが言っているのは「それらがあってもいいけれど、それらを争いの元にしないで」。宗教同士だってつながれば否定しない、国境だって人種だって、お互いのよいところを認めて仲良くできるならきっとその方がいい、財産だって、本当はみんなが豊かに暮らせて人をねたんだりひがんだりする気持ちが起こらないなら、別にそれでもいい。本当のところ、きっとそう思っていたんだと思う。だから
「僕たちみんなは地球を分け合って生きているんだよ。(だからお互いに愛情を注ぎ合おうよ。)」
という言葉に辿り着く。

結局ジョンレノンは「愛される、愛する」ということは、どういうことなのか?普遍的にしろ、個人的にしろ、小さいころ見つからなかったその答えをずっと探し続けていたような気がする。

ビートルズ・ジョンレノン・オノヨーコ・イマジン。どれをとっても超一流のお題なので、研究者は星の数ほど居るんだろうけれど、つたない私見として、そんな風に感じた。

でも、想像してみて。”Imagine, all the people sharing all the world?” とジョンの声で語りかけられたら、”That’s all right, we do. “  そういいたくなりませんか? ねぇ?

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茶の湯と宗教

裏千家茶道(チャドウと言う)を習い始めて一年が経つ。以前(ずいぶん前)に短期間習っていたが、この年になってまた始める機会があり、うれしいところだ。現在は「運び薄茶手前」という作法を習っているところだが、毎回毎回作法を忘れて、私の頭はどうなっているのだろうかと思うことひとしきり・・・。

ところで、先々週に「茶道は宗教性と芸術性の二つがあって初めて成り立ちます。」と先生から教えていただき、漠然と思っていたことだが「やっぱり宗教の側面を持っているのだ」と改めて知った。
特に裏千家茶道では「一碗からピースフルネス」という言葉で学校教育への茶道の取り組み、国際社会での茶道の普及活動とその域は広い。また、お教室の終い(もしくは初め)に合掌し、「ことば」を唱える。

「ことば」
私たちは茶道(ちゃどう)の真の相(すがた)を学び、それを実践にうつして、たえず己の心をかえりみて、一碗を手にしては多くの恩愛に感謝をささげ、お互いに人々によって生かされていることを知る茶道のよさをみんなに伝えるよう努力しましょう。

一、 他人をあなどることなく、いつも思いやりが先にたつように

一、 家元は親、同門は兄弟で、共に一体であるから誰にあっても合掌する心を忘れぬように

一、 道を修めなお励みつつも、初心を忘れぬように

一、 豊かな心で、人々に交わり世の中が明るく暮らせるように


茶道というと「たしなみ」や「日本の芸術性の象徴」のように考えられるが、それは「哲学」のようにどこまで行っても辿り着かない道の一つなのだ。たとえ一つのお点前を覚えたとしても、それは変幻自在であり、これでできた、最高だ、ということはない。なぜならお点前の一つ一つは一度限りのものであり、それは季節を、人を、空気を、生きた時間をその場で作っていく亭主とお客様の共同作業であるからだ。

これだけ考えてもどこまでも宗教であり、どこまでも哲学だ。そしてそれを彩るひとつひとつは日本文化の精神に基づいた深い芸術性が背景にある。

茶道・・・習うより慣れろの言葉どおり、作法が身体と心に染み付いたころに、ようやくスタート地点が見えてくるのかもしれない。

私は同じ

わたしは花と同じ。

私は草と同じ。

私は水と同じ。

私は空と同じ。

私は彼と同じ。

私は彼女と同じ。


私はいつかの私と同じ。

アートマンとブラフマン

ある夜、寝る前に「時間って、アナログだよなぁ」と思ったり、「いや、デジタルもある」などと、当たり前のことをふと思った。

当たり前のことなんだけれども、現在と過去と未来っていうのは、途切れることなく続いている。その時間は一瞬でも一瞬よりも小さい時間でも、途切れることがない。この線で結べる時間はいわゆる「アナログ」なんだよな~と思ったりする。(それがアナログの定義だから当たり前なんだけど。)

たとえば私という材料をある条件を入れて、デジタルオシロスコープにかけるようにサンプリングすれば、そこには或る側面や或る期間における「私」が抽出されて出てくる。
たとえば寝ているときの私とか、仕事しているときの私とか、釣りにでかけているときの私とか・・・、それぞれの「私」は全然違う顔や考えをしている(或いは自分も知らない)かも知れないけれど、その一枚の写真を並べてみるとそれは「デジタル」で見た私であり、その一面だけを見ると「あぁ、この人はこんな人なんだ」などと思うかも知れないけれど、その写真と写真の間の私というのは、全く違った性質かも知れない。
写真の間隔を狭くして、波形のように全体を見ようとすれば、「私」というものに結論を付けて「ひとつの性格」にしてしまうことはできるけれど、ある一瞬の私というのは、逆に色あせて、「その瞬間突出した性格」は隠れてしまう。だから、何かの事象を理解しようとすればそれは「事実」ではあっても「アナログ」だけでも、「デジタル」だけでも不完全な理解しかできないんだろうな、と思った。

「デジタル」と「アナログ」という考え方はどちらも切り離すことができないし、どちらも正しいと思うと、どこかで似たような考え方に出会った気がして、「あぁ、これは”アートマン”と”ブラフマン”の考え方に似ているんだ」と、思い至った。今まで漠然と「アートマンとブラフマン」は、そのようなものなんだ、という抽象的にしか解らなかったものが「デジタルとアナログ」という関係を考えるにあたって、より体感的に理解できた気がした。そして「アートマンとブラフマン」は気がつかないだけで、この世界に溢れている考え方なんだ、と実感した。
それは「ミクロとマクロ」であり「アートマンとブラフマン」であり「デジタルとアナログ」なんだー。
「アートマンとブラフマン」を知りえないと、「デジタルとアナログ」もそのように考えられなかったと思えば、「一方が存在すれば、他方も存在する。一方が滅すれば他方も滅する」という「縁起」の考え方にも通じるものがある。
しかし、デジタルを知り、アナログを知る。それで「私」という人間を理解できるのか?という疑問は湧いて来て、これ以上考え出すと出家でもしてしまわないといけなくなりそうなので、寝ることにした。

私の中のアートマンとブラフマンは、夢の中で答えを教えてくれるのだろうか・・・。


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