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偽善なのか、そうでないのか?

ちょっとショッキングなタイトルになってしまいました。
何が「偽善なのかそうでないのか」ですって??

・・・・。

どれとは言えないのですが、この世の中で起こっていることです。特に災害にからむこと。

・寄付・活動・ボランティア・商売・買占め

3・11のあの日。
私たちの中で何かが確実に変わりました。それは石原慎太郎が発言したように「天罰」に対してかもしれないし、或いはその言葉は「畏怖」かもしれません。

今回は寄付が沢山集まりました。それも世界中からです。なぜでしょうか?それは映像が沢山残されていたとしか言いようがありません。まさに「臨場感」あるいは「共感」がだれにもわかりやすく発生したのです。地震のような揺れは映像では物が動く様子でしかわかりません。でも、襲い来る波によって、まるで家や、車、人、全てが飲み込まれて破壊されていく様子はまさにこの世のものとは思えない映像でした。そして、人は自分が体感したようにその映像の中に引き込まれてしまったのです。

それは生命の危機を感じた本能かも知れません。或いは深いところでの「人の心」かも知れません。人は危機が訪れるともしかしてはじめて「人」として一つになれるのかも知れません。そのような気持ちが人をいてもたっても居られない状況にして、人として好ましい・・いわゆる善行に走らせれば「寄付」のような形になり、好ましくない形になれば・・・人はいざ知らず、自分のため、独善のために「買占め」や「不当な商売・・・食料品などの不足しているところでの価格の吊り上げ」などの行為になってしまうのでしょう。

このときに行う善行は結果として人の助けになっていても、いわゆる、本当に自分のためでない、自分に関係ないところで人を助けるために行う善行と言っていいのだろうか? 自分の恐怖に耐えられなくて、何かせずにはいられないだけなのだろうか?

偽善とは言い切れないにしろ、いまやっている「ためになること」を「いいことをしている」というふうに見てよいのか?「ためにならないこと」を「悪いこと」と決め付けてよいのだろうか?

実際に被災地域には助けが要るし、真心も必要。そして、助ける人が沢山いることは役に立つこと。でもちょっと距離を置いてみて、これは「わたしたちのため、自分のため」と思ってもいいんじゃないだろうか?「被災者を助ける」のでなくて「自分を助けるんだ」と思っていいんじゃないだろうか?だったら、そうすることは当然のことと、淡々とそう活動していいんじゃないだろうか?

インドでは施しをする人と、施しを受ける人は特に「上」とか「下」とかはないと聞きます。それは「施しをする」ことによってその人自身が救われると考えているからであり、逆に「施しを受ける」ことによって自分も命を継ぐこともできるけれど「施す人」をも救うと考えるからだそうです。

そう思えば、とても気が楽になり、これが普通のことなんだと考えることができます。

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