スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【触受】わたしを離さないで -NEVER LET ME GO-

新聞記事で見かけた言葉が気になって或る本を読んでみたくなった。
「英国でカズオイシグロは村上春樹よりノーベル文学賞に近い作家である。」

村上春樹には全く関心がなく、1Q84を読むまで一度も触れたことさえなかった。1Q84を読んで「嫌い」になった。彼の中ではこれはオウム事件に対する一つの答えだと言ってたが、上から目線で児童ポルノまがいの内容に辟易としたというところ。

春樹の悪口はそのくらいにしておこうか。

カズオイシグロ、とても興味深い人だと思った。5歳まで長崎で育ちその後家族と渡英、ヒッピーなどもやってようやく日本という彼の記憶の中の祖国にやってきたらしい。
作品の多くが非常に好評価を受けているらしいが、とりあえず私はこの新聞記事にある「わたしを離さないで」を読んでみた。ここから先はネタバレするのでそれでよろしければ拙文を読み進めていただきたいと思う。

実は私はこれを読んでさらに先日映画もDVDで観た。映画の方が内容が分かりやすいかも知れない。そして、登場人物となる俳優の美しさにまた涙を誘われるかも知れない。
いずれにしろこれを評して我が娘は「救いのない世界」と言った。そう感じた方も多いと思う。

映画ではいきなりこれからの結末を暗示させる言葉が出てくる「人間は技術革新によって100歳を超えて生きるようになった。」。技術革新とは何か?それはこの物語の主人公たちの存在である。この主人公たちはクローンで作り出されたモノであって、人間ではないと認知されている。家畜がいつか大人になって狩られるように、このクローンたちも大人になったら「ポシブル」と言われるクローンの主たちに臓器を一つずつ摘出され、あるものは初めの「提供」で「コンプリート」し、あるものは3回の提供にも生き抜くと家畜同様食べられない箇所を捨てるかのごとくそのまま放置され苦しみの中で「完了」するというなんとも惨い世界なのだった。

その中で「彼らも生物なのです。」と言う人権活動家のような人たちが作ったのが「ヘールシャム」というクローンの学校で、クローンたちは通常は粗末な扱いしか受けないけれどこの高級保護施設であるヘールシャムだけはまるで人間たちのようにきちんと扱いを受ける。ここにいる3人の子供たちがこの物語の主役なのだけれど、語り部となるのはキャシー・Hという女の子。映画で彼女はこの2人の友人を看取ってから最後に自分も提供者となる。

ヘールシャム出身の彼らは普通の子供たちのように子供期、少年期、青年期を過ごす。決められているのはヘールシャムを出てはいけないこと、心と体を健康に保つこと。
彼らは自分の運命なんて知らない。外の世界がどうなっているか、「保護官」と呼ばれる人の教えによって世の中の事を知っていく。いつか保護官の一人が「あなたたちの運命は決まっているのです。」と言ってしまう。でも、彼らが本当に運命を自覚するのはその一瞬のことでなく、徐々に、時間をかけて、あらゆることの記憶のピースがいつかあるべきところに収まることによって「あぁ私は生きているけれど自分のオリジナルに臓器を提供して一生を終るんだ。しかも近い未来に。」と知るのだと、これはイシグロも「記憶」の仕組みをそのように理解していたようだったし、私もそれに同感する。
たとえば「私はあなたのおかあさんじゃないのよ。」と言われても何がなんだかわからないが、その前兆となる不可解な現象の欠片が心や脳の一部に残ってそれがつぎあわさって「あぁ、そういうことだったんだ。」と理解するに至るのだと思う。

この物語には理由が明らかにされないことがいくつかある。
それを私はずっと考えていて、そして最後に「もしかしてカズオイシグロはこのことを言いたかったかもしれない。」という自分なりの解を得た。

彼らの青春を通じて、人は決められた命の長さをどう生きればいいのか、考えさせられる。彼らは家畜のごとく扱いを受けるかわいそうなひとたちだ。そう締めくくれば救いがない。

不可解な事の一つに「私達のポシブルは麻薬中毒者か売春婦か、犯罪者も居るかもしれない。ろくでもない吹き溜まりの人間。」と出てくる箇所がある。普通に考えればクローンの彼らを養い、無事に臓器を育てるまでのことがそのような社会の底辺の人間ができるのだろうか?と考える。クローンの彼ら自身が「せめて自分のポシブルが素敵なオフィスで働く人であったらいいのに。(そうすれば自分の中のプライドも保たれるのに。)」と思う場面が出てくる。まさに救いといえばそれだけが臓器提供のために活かされているかれらの存在意義だ。
しかし彼らの創造主は違う。
なぜイシグロはそのような無理な設定にしたのか。

話を主人公の3人に戻してみる。語り部のキャシー・H、その友達のルース、そして癇癪持ちの男の子のトミー。
トミーは癇癪持ちということもあっていじめられっ子だった。彼はクラスのワンノブゼムであり、特にキャシーやルースと仲が良いということではなかった。でも、キャシーの中の何かがトミーに興味を持たせ、トミーを変え、キャシーと仲良くなっていく。ルースはそれを見てきっとイライラが止まらなかったのだと思う。本当はそんなに好きでもない子でも自分のものにしたい、友達より優位に立ちたい。自分の中の劣等感を押しやりたい。

思春期にはありがちな事であり、それが永く続かないというのも分かっていたことだけれども、ルースはキャシーと居る間はずっとトミーとの関係を見せびらかすようにしていた。そしてキャシーが二人から去った後、存在意義を失くした二人の関係は消滅した。
普通の人間世界ならそれもありだった。でも、彼らに残された時間はあまりに少なかった。キャシーと再会したルースは「ごめんね」という。「本当は二人が愛し合っていたというのはわかってた、それをつぶしたのは自分だ。置いて行かれたくなかった。」と。そしてせめてもの償いに二人の生を少しでも伸ばしてほしい、自分はその方法を手に入れたと。

結局その願いは叶えられなかった。彼らの、愛する人と少しでも長く生きたい、その時間を取り戻したいという願いは虚しく消えた。
それでも、それでも、と思う。短い時間だったけれど二人は本当に愛し合っていることを確認し、最後にキャシーは映画の中ではトミーの最後を看取った。トミーは「わかってるよ。」と言いたげに手術台で微笑んでから眼を閉じた。

こうして彼らの臓器を得て生き長らえる人々。でもね、彼らは「麻薬中毒者」であり「売春婦」でありつづけなければならない。通常の人の寿命を超えた長い間。その「技術革新によって得た寿命」の間、あなた方は幸せなんでしょうか。私が得た解はまさにそのようなことでした。比べてみれば、たとえ命の長さが決まっていたとしても誰かを愛し、お互いの存在を大切に思い、助け合って生きた人生がある方が命としては正しい幸せの形だと思いました。

原作の中でキャシーは「私の記憶の中にヘールシャムがある、それはトミーとルースと同じだ。」といったことをいう箇所があります。心に刻まれた記憶。誰にも奪われない宝物。生の終わるその最後の瞬間までキャシーはその宝物のことを思いながら「完了」するのでしょう。

最後に。
私もこの物語の世界は「救いがない」と思います。それは生きている意味と時間の大切さを知らない世界がはびこっていると感じたからです。

NEC_3047.jpg

コメント

非公開コメント

プロフィール

Jeylynx

Author:Jeylynx
FC2ブログへようこそ!

最近の記事
ANA”旅感”
最近のコメント
月別アーカイブ
最近のトラックバック
カテゴリー
ブログ内検索
RSSフィード
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。